非実在の王国で

山より軽く羽根より重い

わたしとおとうさんとえのはなし

ブルーピリオドを見て、色々記憶の扉が開いてしまったので、ボショボショ溢そうかと思う。

私の亡くなった父親は、創作着物の職人で、若い頃は工房で着物を作る勉強をする傍ら、デッサンや油絵、ガッシュなど各種素材を扱う勉強をしていたらしい。
100号のパネルに絵を描き、それをコンテストに出し賞をもらったりもらわなかったりしつつ、次の制作に向かう、という、ある意味美大でやるようなことを、工房持ちで伸び伸び楽しくこなしていたらしい。
そんな訳もあって、私の父は滅法絵がうまかった。

創作着物はバブル期までは景気が良く、作れば売れるような状態だったのだけど、バブルが弾けて、多くのの工房が事業を縮小、そして廃業という道を辿ることとなった。
多くの職人が他に職を求めた、みたいなことがあったのだけど、私の父は職人であり続けた。尊敬はしていない。仕事など一つもないまま、職人であり続け、うちはひどい貧乏になったが、尚も職人であり続けた。
尊敬はしていない。ただ、気持ちはわかる。痛いほど。

で、私である。
父親の職業のこともあり、小さな頃から絵を描くのも見るのも好きで、父に感化される形でお絵かき教室に入って絵を習い始めた。
その頃は父がどうやって絵を描いているのかを観察し、模倣することで子ども離れしている絵を描くと、大きに褒められたものだった。
かつて天才だった私であり、神童だった私である。
しかし、所詮は模倣、二十歳を迎えるどころか小学校一年生の時点でただの人になるのであった。
子供なのでそんなことには気付かず、漫画やアニメの絵に感化されたりしつつ、自分は絵が上手いと思いながら楽しく描いていた。
幼稚園の頃は、描けば両親も周りの大人も褒めてくれたという成功体験も手伝って相当天狗になって描いていたように思う。
しかし、状況は変化していく。

図工の時間に描いたような絵が、一つ一つジャッジされてくるようになった。
色が不味い、観察できていないから形が取れていない。これがまた、自分がよく出来ていないと思っていた箇所を突いてくるからたまらない。
そうした指摘の後に、大体決まって、でもお前は才能があるから続けていけ、と言われるのである。
そうか、と私は気を取り直した。

指摘のみとなり、いまいち誉められなくなったころ、私の一つ上の学級に、とても絵の上手い先輩がいて、他愛無い手紙なんかに絵を描いてくれた。
この人は本当に絵が上手く、今でさえもらった手紙を見返すとほんとに小学六年生が描いたのか?という出来で驚いてしまう。
それを父が見つけた。
本当に小学生が描いたのか?と訊き、そうだというと絶賛した。
まずきちんと形が取れている。線も勢いがあるのに荒れていない。あしらい方が子ども離れしている。
なるほど、こんだけ上手くないと褒められないのだな、と私は納得し、中学に上がりそうなるべえと美術の授業に打ち込んだ。

はじめの方はデッサンや色彩構成みたいななにかなど、楽しくやる気も十分にこなしていたのだけど、そのうち変化が訪れる。なにか、何をしても楽しくないのだ。
なんで楽しくないかというと、一向に上手くならないから。
その時の私は目標の高さに気づいていなかった。
本当に先輩の絵は上手かったのだ。

あまりに上手くいかないので、私どんどん道を逸れ、片手間に描けるような、ちょっと手の込んだ落書きに耽溺するようになった。
そんなんなので、本気の絵みたいなものが完成する割合が減る。減ると今度は、指摘すらされなくなる。
私の感性は多分、幼少期に炸裂しており、その頃は作文にしても瑞々しかった。らしい。
そうであるので、あの頃のお前は良かったね、という思い出話が飛び出すようになる。
なんとなく嫌な気分がするが、まあそうだししかたないか。そう思った。

そうして長らく、片手間の絵に耽溺していた私に、転機みたいなものが訪れる。
高校の一年ごろ、近所のPARCOのクリスマスのメインビジュアルの絵を、100%orangeが担当したのだ。
それまでは漫画やアニメ一辺倒で、イラストレーションにとんと疎かった私は、こういう絵があるんだなあと思い、自分でもやってみようと思ったのだった。
久しく構図をきちんと考え、配色を考え、頭の中のイメージを、紙に丁寧に落とし込むようにした。
楽しく出来たので、こんなのはどうであろうかと父にお伺いをたてにいくと、頑張ったことは褒められたが、やはり線が、色が、デッサンがの話が始まる。
まだ1枚目だししゃあないべ。つぎつぎ。と、数を重ねて描いていったがやはり褒められはしない。ウームまだ出来ていないか。

特にデッサンができていないので、ちょっとの仕事の合間に教えてやるべと、仕事がなく有り余る暇の時間に、デッサンの仕方を教えてもらうという時期があった。
デッサンついて、中学の頃に手を切って以来、一番苦手な形を取ることへの苦手意識をなんとかせんといかんとは思っていたが、デッサン。萎縮してしまうな。と思っていた。
父親は馬鹿でかいスケッチブックに、この画面にバランスよく描けと言い、ヒエーとその画面のでかさに怯みつつ、鉛筆をスケッチブックに当てた。
が、どうしたことか。鉛筆が動かない。
水を怖がる犬か?そう思いながら無理やり手を動かして林檎と布を描いていく。見ているものと手が一致しない。ひいひい言いながらひとまず見てもらうと、「ひどいな」の一言。
もう本当にその通りですねという他なかった。
そのあとも「林檎が浮かんで見えるで」「その目線の高さやったらそんな平坦には見えんやろ」「お前のは絵や、絵は子供でも描けるんや。絵を描くな。デッサンをしろ」というようなこと言われたことを覚えている。
これについては未だにそうですね…という他ない。恨む筋合いもない。
いまだに私はゴミ以下のデッサンかどうか危ういものしか描けない。

お前はほんまに形が取れんなあ、と呆れ気味に父は言った。しかしいつかのように、ただ才能はあるから続けろ、とは言う。
この頃になると私も、自分に才能がないことは理解しており、父がこう言うのは私の中に実際的な才能を見出している訳ではなく、自分の子供であるから、才能はあるはず、という誤った確信からと見抜いていたのでなんだかな、と思った。
私は、自分が絵を描く人間の中では致命的なほど絵が下手だと言う事を身に沁みて知っていた。

下手なりに、でも美大は行きたいねと思っていたが私の実力と、それ以上に貧乏が天元突破して、奨学金を借りる決心がつかなかった由で断念し、翌年父の実家の助けを受ける形で少し特殊な美術学校へ行った。良い学校だったのでそれは良かった。

それでまだ私は自分を下手だと思いながら絵を描くことは続けていて、一時期はこのまま専業イラストレーターになれるのでは?!と思った時期があったけど以下省略。
ブルーピリオドは「したい事を人生の真ん中に持ってくるのは当然」と言ったが、私も真ん中にしたかったなー。形が取るのが苦手!と乗り越える根気がなかったのだから真ん中に据えたかったという資格もないのは分かっているが。

今はまあ、特に褒められも貶されもせず、描きたいものを描きたいように描いているので気楽だが、思い返すにあの果てなき指摘の日々はそれはそれで貴重なものだったと割と思う。
特に今、どうにも「片手間で描けるちょっと手の込んだ楽描き」に耽っているように思うから。
もう一度「この人には言われても仕方ない」言う人に言われてへいへいと絵を見直すことはきっともうない。
指摘は自分でせんといかん。それはまた大変なことやで。