非実在の王国で

山より軽く羽根より重い

早良と鯨(BL風の何か)

鯨くんにキッチンで具なしパスタを貪っていたところを目撃された。
鯨くんは「もっと栄養のあるものを食べなよ」と呆れ顔で言ったが、「ぼくは滋養のあるものなんか食べられる身分にないんだ」と決然として言い放った。
すると「その身分になりたかったら」一呼吸置いて「働けばいいだけなんだよなあ」と鯨くんはため息をついた。

僕らは同じシェアハウスに暮らしていて、鯨くんは就職浪人で、安い住まいに暮らしながら職を探しており、ぼくはと言えば実家に居づらくなって、家を飛び出し、貯金と短期バイトで食い繋ぎながらここにいる。

ぼくらは馬が合って、というよりは、ぼくが一方的に彼に懐く形で友人関係を築いていた。
たびたびぼくは彼の部屋に行き、たまの贅沢とビールを喰らっては酔い潰れ彼のベッドを占領し、しょっちゅう記憶を無くしては、部屋に被害がなかったか確認するというルーチンをこなしていた。
なんでこの人愛想を尽かさないのかな、と不思議だったが、ぼくには都合がいいことだったので、毎度の罪を胸にそっと仕舞い込むのだった。


そんな日々がいつまでも続くような錯覚を抱いていたが、鯨くんは勤勉であったので、さくりと仕事を見つけてしまい、シェアハウスから退去する事になってしまった。
ぼくは彼が唯一の友人だったので、たとえここを出て行っても何かしら理由をつけて遊んでもらうべく、これまで同じ家に住んでるんだからいいやと聞きもしなかったLINEを交換し、何かお祝いがしたいからと鍋料理屋に彼を誘い出した。

「悪いね、君にご馳走になるとは思わなかった」
鯨くんはへらりと笑った。
「いいんだお祝いなんだから。でもこのためにぼくが、普段しない力仕事のバイトをしてきたことは忘れないでいてくれ。こうしている今も筋肉が軋みを上げているんだ」
「やな恩の着せ方をするなあ。」
やがて鍋の支度が整い、ふつふつと茹だつ出汁がいい匂いをぷんと立てた頃、鯨くんは静かに言った。
「早良くんさ、俺のことすごい好きだけどなんで?」
訊かれて思わずむせる。なんと誤魔化そうかと考えたが、何も思いつかなかったので正直に言う事にした。
「…うち父親が10歳の頃に亡くなっててさ、ぼくは父さんが大好きだったから、すごく悲しかったんだけど、母さんは一年くらいで再婚して。しかも相手が叔父さんで、受け止めきれなくて」
「それはまた…」
「すごく気不味くてさ、別に悪い人じゃないんだけど。でも悶々とするうちに、こんなに早く結婚するって言うことは、もしかしたら父さんの生きてた頃から何かあったんじゃないかと思い始めて。そしたらもう、二人の顔が見られなくなって…、本当の父さんのことばかり思い出すようになって」
そこまで言うと声が詰まる。続きを言うのを躊躇っていると、鯨くんが問いかけてきた。
「その話とおれとが、どう繋がるの?」
観念して言葉を継ぐ。
「気持ち悪いと思うんだけどさ、気持ち悪くて悪いんだけど、鯨くん、どこか父さんに似てるんだ。顔とか声じゃなくて、何か。一緒にいると嬉しいから、つい馴れ馴れしくしてしまった。…気持ち悪いだろ?」
「…いや、確かに幼いなとは思うけど、理由としては分からなくはないよ。複雑だったんだ。…家を飛び出してきたのもそれが理由?」
「そう、本当に幼稚で嫌になるけれど」
煮立った鍋を前に、食べなきゃね、と鯨くんが手際よく具を取り分ける。取り分けながら鯨くんは事も無げに呟いた。
「おれはね、ゲイなの」
突然の告白にぽかんとする。
「ひいた?」
「や、そんな事はないけど。」
「おれはね、もしかしたら君もそうなのかもしれないと思ったの。」
鯨くんはなんとも言えない表情をしていて、ぼくはなんとなくばつの悪い気持ちがした。
「…もしかして君は、ぼくが好きだった?あまりべたべたしたものだから…」
そう言うと鯨くんはけらけら笑った。
「まさか、そんな訳ないよ。だいたいおれは君みたいのじゃなくて、真面目で清潔感のある人が好きなんだ」
「ぼくは不真面目で不潔だということか」
ぼくがそう言うと、鯨くんはさらに笑って
「そうは言わないけどさ、ああおかしい。もしね、君がそうでおれを好きなら、やんわりお別れを言わなくちゃと思ってたし、もし君もそうだってだけなら色々相談に乗って欲しいなって思ったんだよ。」
と言った。
「ははあ、そういう事か。」
納得しつつ、一つの疑問が湧く。
「それってさ、ぼくがゲイじゃなかったら友達じゃなくなるって事?ぼくはかなり深く君を友達と思ってるからお別れになるのは嫌なんだけど」
「実のところ考えてなかった。どっちかだと思ってたからね。そうだなあ…」
鯨くんが軽く上を向き、考える仕草をした。
「なら、現状維持って事でいいんじゃないかな。」
「本当に?!」
思わず大きい声が出る。我に帰りあたりを見回したが特に誰も気にしていなかった。
緊張が解けたぼくは多分その日一番くらいに笑って、鍋を食い酒を喰らい、例の如く酔い潰れて鯨くんに引き摺られて帰った。


そういう訳でぼくらの友情は継続する事になった。
鯨くんは忙しいので、以前のようには会えなくなってしまったが、土曜や日曜に会う約束を取り付けることができたのでぼくは嬉しかった。
嬉しかったが、あまりに都合を付けてくれるので、君は友達がいないのか、と訊くと、一緒にするなという返事が返ってきた。手厳しいことだ。
それに鯨くんはぼくがふらふらしてる事を重大に考えるようになり、職業訓練や就職支援の講座なんかのチラシを大量に持って来るようになった。
初めはぼくものらりくらりとかわしていたが、実の家族以上の熱意で世話を焼こうとしてくる彼に根負けをする形で、初めてまともな就職活動をするに至った。

「今週はどうだった?」
「事務仕事を2社受けたけどどうかな。受かる気はあまりしないね。」
「ま、駄目でも気にしないことだよ。報われるときは報われるから。」
さして気にもかけないように、足の爪を切りながら鯨くんは言う。
鯨くんの新しい家でぼくらはぶつくさ話をしていた。
「そうだろうか。果てしない気がするけれど。実のところ最近、面接に行こうとするとくらくらするんだ。」
「あるある、よくあることだよ。自分が全部否定されちゃったように思うんだ。」
「君もそうだったのか」
「そりゃあね」
そのうちに夕飯の時間が来て、何か食べるべく外に出た。
鯨くんの家の近所にはうまいカレー屋があるので、自然とそこに落ち着く事になった。
インドの神様の絵がそこらじゅうに貼られた店内で、雛豆のカレーをはふはふいいながら食べつつ、ふと鯨くんがつぶやいた。
「何かやりたい事はないの」
問われて少しだけ考える。
「別にないなあ。強いて言えば大学に行きたい。行けなかったから。」
「お金があったらそれも一つの進路だったかもね。」
「しかしゲンジツ。ゲンジツテキには働かないといけないのだな。嫌いだな、ぼく。ゲンジツ。」
「おれも嫌いだよ」
諌められると思っていたのに、同調されて驚く。
「珍しい。君がそんなこと言うなんて」
「言いたくなる日もあるよ」
ぼくは何かあったのかと聞きたかったが、普段の気丈な彼を思うと、聞くのが怖くもなってつい流してしまった。


相変わらず就職活動は難航しており、箸にも棒にも引っ掛からず、夜毎枕を濡らしっぱなしの日々を過ごしている。
それでも折れてしまわなかったのは、鯨くんの言う「おれもそうだったよ」の言葉を杖に出来たことが大きい。彼も辛かったのなら、自分が辛いのも当然だと言い聞かせられたのだ。

ある日のこと、ハローワークで求人を見ていると、大学の一般事務の仕事を見つけた。
なんとなく大学に行きたいと呟いたことが思い出され、気が付けば応募しており、恙無く面接当日を迎えた。
大学は山の麓に立っており、広々していて気持ちが良かった。
大きな噴水を通り過ぎ、リノリウムの床に足音を立てて、面接が行われる部屋の前にたどり着く。
不思議と何も、緊張する事はなかった。


果たして結果は、採用であった。
ぼくは嬉しいやら誇らしいやら、とにかく鯨くんに報告したくて、でもLINEで言ってしまうのはもったいなくて、平日の夜だと言うのに約束を取り付けて彼の部屋に押しかけた。
報告を聞いた鯨くんは、たいそう驚き、自分が採用された時より喜んでるんじゃないかと思えるほど、泣いたり笑ったりした。
「ああよかった、おめでとう、うれしいよ、おかしいな、もうこれしか言えない」
言葉の通り同じ言葉を繰り返して鯨くんは顔を赤くしてしばらく床を転げていた。
しかしそのうち、妙に悲しそうな顔をして、おめでたいに日にごめん、でも次会ったら言おうと思ってた。と、か細い声で言った。
「ごめん、あのときおれ嘘ついた。ほら、鍋屋に行った時の。あのとき君がもしゲイで、おれを好きでいてくれたなら」
「…」
「おれもだよって言うつもりだった」
鯨くんは項垂れた。
泣きたいのは彼だろうに、大粒の涙はぼくの目から落ちた。
「ごめん、君が辛いの、全然気づかなかった」
「いいんだよ。気付かないでいてくれてよかった。お陰でこんなに長く一緒に過ごせた」
「…うん」
「でも本当にごめん。まだ全然一緒にいたい。まだすごく好きなんだけど、辛いのが大きくなってきちゃってもう無理っぽい。」
「ごめん…」
「おれこそごめん」
二人ともが床をじっと見ていた。
どのくらいそうしていただろうか。不意に鯨くんが口を開く。
「もうこれで終わりなら、ひとつ願望でも聞いてもらおうかな。」
空元気で陽気に言ったものの、次の言葉が続かないらしい。
「なに?」
答えを促すと鯨くんは申し訳なさそうな笑みを浮かべて、
「キスがしたい」
と呟いた。
ぼくは鯨くんのことが大好きであったので、彼が望む好きではないにせよ大好きだったので、彼を見つめていいよ、と言った。
彼は困ったように笑い、一瞬躊躇ってぼくに顔を近づけた。
そして下唇をはむ、と挟むように口付けると、あっという間に顔を離した。
「ごめん」
「ううん」
どうしていいのか分からなくて、鯨くんの頭をそっと撫でる。
そうしながら、そういや人に好きだと言われたことも、キスしたのも初めてだなと気づいたり、振る立場ってこんなに辛いのか、と考えたりした。
そのうちに落ち着いた鯨くんが、いつもの笑顔を取り戻して、「もうここに来ちゃ駄目だよ」と言った。
ぼくらは友達ではなくなってしまった。


事務の仕事は案外楽で、楽で、と言うよりは気楽で、あまり気負うことなくそこそこにやれている。
蛍光灯の取り替え依頼が来ては蛍光灯を割り、名刺の発注を依頼されては誤発注し、領収書をぶちまけたりしているが、そして怒られているが、それで死ぬ訳じゃなしとのほほんとしていられる。
あの頃の、働くことがとにかく嫌だった気持ちはもういまいち思い出せない。ひとりで社会に飛び込むのが怖かったのだろうか。
鯨くんには本当に感謝をしなければいけないなあ、と不意に考えては悲しくなる。
今彼はどうしているんだろう。

それから半年後。
給料日、仕事を終えて酒屋に寄り帰路に着く。
もうしこたま酔っても、介抱してくれる人はいないが、やはり記憶をなくすまで呑んでしまう。治さなければいけないと思うがなかなか治らない。
シェアハウスは就職した際に退去し、今は新築のワンルームで暮らしている。
アパートに向かう角を曲がると、人陰が見えた。
人影はこちらに気付くとあろうことか猛進してきた。
逃げねば。そう思ったが変質者に会ったことなどなかったぼくは、すくんだ足を引きずろうとして後ろに倒れる事しか出来なかった。
突進してきた人影は、親しい声で叫んだ。
「ごめんごめんごめんごめん!」
顔を上げると顔を赤くしたり青くしたりしている鯨くんがいた。
「何でいるの…」
恐怖の余韻と驚きと混乱で滅茶苦茶になった頭を必死で御して、やっとそれだけ言った。
「どうしても伝えたいことがあって。でもLINE消しちゃってて連絡できなくて。」
慌てているのか、鯨くんも混乱しているのか、早口で捲し立てる。
「あれからずっと、これでよかったんだこれでよかったんだって思ってたんだけど、時間が経つにつれどんどん辛くなってきて、会えて辛いのと、二度と会えなくて辛いのなら会えて辛い方がいいなって、でも自分で遠ざけたくせに、本当勝手だと思うんだけど、もう一回前みたいな関係になれたらって。すごく勝手だし幼稚な事を言ってるのはわかってる。でももし許してくれるならーー」
鯨くんはそこまで言って盛大にむせた。
ぼくは鯨くんの背中をさすりながら、「こんな鯨くん初めて見たな」と思った。
「どうかな」顔を赤くした鯨くんが恐る恐るこちらを伺う。
「そりゃぼくは相変わらず友達がいないし、何より君が大好きだから願ってもないけれど。恩返しもまだしてないし」
「本当に?」
「うん。もしまた辛くなったらそのときは話し合おう。お互い居心地のいい距離を探ればいいと思う。うまく出来ないかもしれないけど、何もしないで悲しいよりは、きっとずっといいよ。」
鯨くんは泣きそうな顔をして一言だけありがとう、と言った。
ぼくは嬉しい気持ちになったので、笑おう、と思ったのだけど、一つの疑問が頭を掠めて真顔になった。
「鯨くん、何でぼくの家知ってるんだ?」
「えっ」
そこを突かれるとは思ってなかったと言わんばかり、鯨くんは盛大に目を逸らす。
ぼくはあり得る可能性をいくつか浮かべ、ぞっとして言った。
「君ちょっと怖いところあるな」
鯨くんは相変わらず目を逸らしたまま、
「すごいごめん」
とうめいた。