非実在の王国で

山より軽く羽根より重い

いや、人生は気合だね

Sと知り合ったのは前の前の職場、古書店に勤めていた時のことだった。
初めて会ったのはやや記憶が霞んでしまっているが、多分秋頃、よれたスウェット地のプルオーバーを着て、店の前をウロウロしているのを見つけた時だ。
店長が何してるの、と声をかけにいくと、Sはおずおずと、「これ、捨てちゃうんですか。貰っちゃ駄目ですか。」と、本が雑然と詰め込まれた段ボール箱を指差した。
実際捨てるものだったし、どうせなら読んでくれる人がいる方が本としても浮かばれるだろうとあっさり譲ることが決まり、ついでにその細腕じゃ運べないだろうということで、店長のハイエースでSの暮らす銀閣寺のアパートまで送って行くこととなった。
店長と二人じゃ萎縮するかもしれないと、私もなんとなくついて行くことにした。

車中は静かなもので、それというのもよく喋る人間が誰もいなかったからで、それでもぽつぽつと短い会話がなされる瞬間もあった。
店長が本が好きなの、と訊くと、Sはいかにも恥ずかしいというように、好きです、でもお金がないから欲しい本は滅多に買えなくて、と言った。
なんでもくだんの箱に、ずっと欲しかった本が入っているのを見つけて、勇気を出して頼んでみたのだという。
その本のタイトルや作者はもう忘れてしまったが、私はじゃあその本だけ持っていけばいいものを、案外欲張るタチなのかしらんと思ったことは覚えている。

銀閣寺のアパートに着くと、Sは何度も頭を下げ、何かお礼がしたいけど、今何か渡せるものなんてなくて、むしろしない方が恩返しになる、というようなことを言うので私たちは三人、気が抜けたように笑った。

そこから三ヶ月、また会うとは思っていなかったが、Sの方からまた店にやってきた。
店長が話を聞いたところによると、ここでアルバイトさせてくれないだろうかという打診だった。
ちょうど一人、パートさんが辞めたので、その後を引き継ぐ形で入ってもらえるなら、ということになって話はすぐにまとまったのだけれど、社長は冗談なのか「しかし君の場合は本屋より飯屋に勤めた方が栄養が回っていいのじゃないか」と言い、セクハラ紙一重だと私は思ったけれど、Sの薄っぺらい体を見て、私も考えを同じくするしかなかった。

私はネットオークション周りの仕事を、Sは経理の仕事をこなしながら、3時休憩の時には雑談をよくした。
Sは住んでるアパートが四畳半通り越して三畳しかないと言って笑い、頭を壊して大学を休学していて、好きな人に会えなくて辛い、というような事を言った。
そしてNさんは好きな人はいますか?と尋ねてきた。
私には当時、付き合っている人がいたのだけれど、そんな話を聞いた手前、いるよというのも気が引け、いないよと返事をした。
するとSは喉の奥でだけ笑い、さみしいですよねと言った。
煽られた、と私は思った。

そういう日々が続いていたある日のこと、Sは徐に、「私、転部しようかと思ってるんですよ」と打ち明けてきた。
「なんで?」
「私は確かに理系の脳であるのには違いないんですけれど、どうしても本が好きなんです。ここにいて身に染みた。出来ることじゃなくて好きなことをやりたいなって思って」
「古本屋やるの?」
「そうしたいです」
「京大卒の古本屋っていうのもなんかもったいない感じがするけどねえ」
そういうとSは困ったように笑った。

それからSが復学して、バイトの時間が短くなったりしつつ月日は過ぎ、Sが卒業する日が来た。
Sは泣きそうな顔をして、ほとんど押しかけたようなもんなのに、こんなに良くしてもらえるなんて私は幸運でした。私の本当の学舎はここだったのかもしれません、なんて大袈裟なことを言うので私は少し恥ずかしくなった。
Sの古本屋になりたいという夢に大きに共鳴していた店長が、店を出したらこれを商品にしてと、葛飾北斎の釈迦御一代図絵の4冊揃いと、これはただのプレゼント、と言ってSが一番好きな二葉亭四迷の全集を渡した。
するともう、決壊寸前だったSは丸まって泣いてしまい、みんなに宥められなれながらさらに泣いた。
そのままみんなでご飯を食べに行っては泣き、酒を飲んでは泣き、帰りたくないと言ってはみんなを困らせつつ、涙を伝染させては最終的に全員が泣いているという異常な集団が出来上がった。
思い出すと少し恥ずかしい。

そのままSとは特に連絡を取ることもなくなり、薄情なことではあるけれど、ほとんど忘れかけていたころ、一通のメールが届いた。

「いや、人生は気合だね    S」

という文章と、二葉亭という看板の下がった小さな古書店と、その前に立って快活に笑う少し太ったSの姿が写った写真が添えてあった。

なんだかたまらない気持ちがし、泣きながら笑ってしまう。
確かに人生は気合だった。